「自己紹介」から一年を経過しての所感 その1
“所感"の簒奪と本当の動機
さて。
私が"3000字の散文か随筆かわからない文章"1を投稿してからおよそ一年が経過した。
タイトルを見てピンと来た人もおられるかと思う、このようなパロディ記事2を私が執筆した理由には、旅マネの「一年を経過しての所感」記事が(たびたびwordpressの投稿一覧を覘きに来ては、下書き記事にないかと見渡してみても)出そうにないから、ないなら私が書いてやろう!!――と、いう挑戦的なものもあるが、それ以上に私自身の心境の変化をここらでまとめておきたくなったから、というのが本心である。
これまでブログというものに触れたことがなかった私ではあるが、今思えばもともとこういった「何かを発表する場」というものには興味があったような気がする。そこで、今回はブログをはじめとする「執筆・公開という行為」に対する私自身の感覚と、一年前、怪文書的自己紹介をインターネット上に公開してから今に至るまでの私の内面の変容を書き出し、考察してみたいと思う。
↑結局今回も随筆で終わりました! まえがき通りに記事が書けること、ほぼ無いね!!
かつてそれがブログの亜種だった頃
インターネット上で私という存在を見かけるとしたら、まずTwitterであろうと思われる。
私はインスタもyoutubeもやってはいないし、往年の匿名掲示板にも書き込んだことはない。
私という人間をこのネット上で見つけるにはまあTwitterがメインで、次いでこのブログではなかろうかと思う(もちろんLINEやdiscord、gmailなどの広義SNSはやっているが、閉鎖的なので目に触れることはあるまい)。
実際私から見たネッ友は大半がTwitter経由で知り合っており、まあ長々と書いてきたが要するに私のインターネットコミュニティの重心はTwitterにあるのである。
さて、そんなわけで(世に出ている)私のネット活動の本陣たるTwitterだが、これは当初「ミニブログ」と呼ばれていたのはご存じだろうか。いや、当初というか今でもwikipediaのミニブログ3の一覧には挙げられているのだが、まあ大半の利用者はもはやTwitterをブログの短文版とは思っていないだろう。SNSというもっと的確で今様な単語があるのだから。
Twitterをどう運用するかは本人の自由であるが、短文ではできないこともあるだろうとは思う。対してブログには140文字の字数制限はない。
別に今からブログ全盛期の賑わいが再来するとも思っていないし、してほしいというわけでもないのだがどうも私のような人間には"ミニ"ブログでは物足りないのかもしれないというのが直近の感覚である。
すなわち、私にはブログが必要なのではと思う次第である。
人間って……怠惰だ
以前、所感シリーズを読んでいた時に心の中に残っていた言葉があるので以下に引く。
アウトプットの機会があったことをお互いが知って、アウトプットし続けなければ思考は枯れるのである。
ふと自分の気持ちを文字の落とし込みたいときにその手段を確保しておくことの大事さは読者、いやツイ廃諸兄の皆様であればよくわかっていただけるだろう。
「思考は枯れる」ーーその感覚が、当時の私にはよく分からなかった。
今でもその意味するところは真に理解できているわけではないが、少し近しいかもしれないこととして感じるのは「人間、締切がないと何も成し得ねえ!」である。
研究室に入ったり、合同誌4に寄稿したりしていると自分がゼミの前日や、締切の直前期になるまでほとんど進捗がないことに驚く。そして、一方ではゼミや進捗確認(催促)というのは、ともすれば忘れたり後回しにしてしまいそうな人間の性質に対して、常に心のどこかにある、という状態を作るーー或いは、定期的にその目標やタスクの存在感を示させる(占めさせる?)ためにやっていることなのではないかと思われる。
進捗確認というのは別に合同誌の執筆以外でもサークルの例会やら、もっと遡れば中高時代の部誌執筆でもあったとは思うが、その頃はなんだか監視されているみたいでヤダなあ(信用ないなあ……←実際信用のあるような日頃の行いではないですね)と、あまり良い印象がなかった。
だが「常にそのタスクの存在を意識している」という状態は、人間を生産的営為に向かわせ、何かを成し遂げさせるにあたって非常に強力かつ適切な手段なのだろうと最近では思う。ちなみに卒論の進捗は皆無である。
創作行為や執筆、研究という営みなどは立派なことだが、一方で人間はとかく忙しい。なにはなくとも俗なる日々の些事に追われている。
というか、主語を小さくした場合はこう言い切ることもできる―「私は怠惰すぎて執筆とか創作行為に飽きてしまう」。いわゆる堪え性のない三日坊主である。惰眠や暴食の短絡的快楽に流れてしまうのである。
そんな人間を……人間でさえも、机に向かわせることができるのが締切――なのかもしれない。
アウトプットの場としてのブログ
随分と遠回りをしたが、締切の話は一例なのである。
別に私は創作行為を神聖視している訳ではない。――湯治ついでに温泉宿に幾日も逗留して心の余裕と情緒のある空気感の中でこそ執筆は捗るのだ、そういうときにこそ文学は生まれるのだよ――などとのたまう気はない。
が、一方で日常生活の忙しない状況で、筆を執る余裕があるとも思えない。
衣食住足りて云々とは違うが、日々を生きることに必死である時には文学や趣味に向かう余裕はない……のではないかと思う。(全然、諸説あり5)
結局後回しにされがちなのである。
だから、要するにお膳立てが必要なのだ。人間には。
人間の創作行為は締切という極めて俗っぽく泥臭い催促によって(それは時として自発的に、自分で自分に課すタイムリミットだ)促されているのである。6
そういう意味で、場の提供というのは「創作行為のためのお膳立て」として重要なのだろうと感じる。
自己紹介以来、ご所望の通り旅行にも鉄道にも関係のない様々な記事を書いてきたが、今まで一度もコメントや反応が来たことはない。
しかしそれでも、確かに私の書いた記事たちは蓄積されていっている。
それはもしかすると脳内で生まれ、しかしそのまま散逸し消え去っていたかもしれない何かである。
未完成のアイデアの萌芽たちを、鉢植えの中で枯れるのを見ているだけではなく、目の前にある花壇へと移し替えることができる。
例えすぐには実を結ばずとも、確かにそこに残り蓄積されていく。
思ったことを整理したり書き留めておく几帳面さのない私にとって、この土壌は大変にありがたいものなのである。
「なんか一年前もテストのやる気が出なくてブログの記事を書き始めたような思い出があるなあ……」なもっくるより
- 出典:https://media.manager-travels.com/post-147/ ↩︎
- パロディ元が有名じゃなさすぎるパロディはパロディとは言えない、とか言わないでください。
所感シリーズ:https://media.manager-travels.com/post-354/
雑感シリーズ:https://media.manager-travels.com/post-530/ ↩︎ - https://ja.wikipedia.org/wiki/ミニブログ#一覧 ↩︎
- 旅する○○ その3 ↩︎
- 実際私は生きるために筆を執っていたことさえもあっただろうが…… ↩︎
- 先ほど神聖視していないと書いたがやはり私も少しばかりは何かを生み出すという創作行為なり執筆行為を神秘的に受け止めている節があるらしい。 この一文を書くときに「そんなものなのかなあ……」とがっかりしていた。 ↩︎


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